ITHIGATHU!!
0
小さい頃から絵を描くことが大好きだった。描けばみんなが褒めてくれるし、喜んでくれるから。大人になったら絵を描く仕事をするのが夢だった。
……あの日の あの時までは。
「……私にもう絵なんて……描けないよ」
1
大きな白い飛行機雲が青い空に線をひいていくのを、眺めていた。はたから見る人がいたら、私は空を見上げてぼーっと突っ立っているように見えるだろう。
でも実際は、ぼーっとしているわけではないのだ。飛行機雲から少し目を離すと、大きな学校の時計に視点が定まる。
8時15分。この学校に入るまで後5分。
「……大きな学校だな」
前いた学校よりも、その2倍はあるんじゃないか、というほどの大きさの校舎を見上げていると、改めて緊張の波がおそってくる。
ちゃんとみんなの前で挨拶できるかな。失敗したらどうしよう。
もし、名前以外に何か自己紹介しなくちゃいけないことになったら……。
大丈夫。大丈夫。何とかなるって。ここまで15年間生きてきたんだから、これくらい。
昨日の夜からずっとそのことをぐるぐると考えていた。
だいたい、どうしてこの5月に転校するって決めちゃったんだろう。
せめて新学期にしておけば、他に何人か転校生がいたかもしれないのに。
こんな微妙なタイミングで、友達なんてできるか分からない。
「……あ」
時計はいつのまにか5分経っていた。飛行機雲はすでに壊れかけていた。私は重い足を一歩踏み出す。今度こそ、失敗しないように。
*
「来須絵里といいます。今日からよろしくお願いします」
教室中の約30人分の視線が突き刺さってくる中、なるべく落ち着いた声で自己紹介をした。
「じゃあ、来須の席はあれな。皆、仲良くしてやるんだぞ」
先生に指をさされた先の席へ向かう。
得に緊張していたほど、なにかが起きるわけでもなかった。空が落ちてくるか、槍が振ってくるかくらいするかと思っていた。多少好奇の目はむけられるけど。
(私……何を怖がっていたのかしら?)
ホームルームが終わろうとしたその時、突然ドアが開かれた。
「すみません。遅刻しました……」
カバンを片手に持った男子が入ってきた。だるそうな低い声に着崩された制服。
ふとその男子と目が合ってしまった。
黒板に書かれた私の名前と私の顔を交互に見てきたので、慌てて目を反らす。ちょっと苦手なタイプかもしれない。しかし、男子はこちらに歩いてきたと思ったら、私のとなりに座った。
なんてことだ、隣の席だったなんて……
ホームルームが終わると、案の定何人かの女子達に囲まれて出身地や出身校を聞かれた。
「5月に転校してくるなんて珍しいね」
と、一人の女子が言う。
一瞬心臓が高鳴ったが、転校の理由は得に聞いてこなかったので、少し安心する。1時間目がはじまる予鈴がなり、自分の席に戻る女子達を見て、ほっと力がぬけた。転校生にありがちな難問であるはじめの自己紹介を、一通り無事に終えることができた。もうすぐこの学校で初めての授業がはじまる……。
……そういえば教科書持ってきたっけ?
何ということだ。忘れてきた。一時間目は確か、国語。もうすぐ先生が来てしまう。できれば絶対したくなかったことを、するしかない。私は隣の席の男子に話しかけた。
「あの、すみません……教科書一緒に使ってもいいですか」
男子は少しびっくりしたような顔をしてから、教室の前にあるボードを指差した。
「今日、テスト返しだから俺も持ってきてない」
「えっ、あ……そうなんですか」
ボードには1時間目の国語はテスト返しと書かれていた。普通に話せた。少しほっとした。
授業開始のチャイムとともに先生が現れる。隣の男子の言う通り、教科書を使うことはなかった。学期はじめにあったテストの答え合わせをするだけだった。
ただ少し心配になったのは、隣の男子が返されたテストをちらっと横目で見た時、「7点」という数字が目に飛び込んできたことだ。そして答え合わせをしている途中、ずっと何かテスト用紙に落書きをしていたのだが、大丈夫だろうか。彼のこの先は。
しかもそのテストを見た他の女子が「ラッキーセブンじゃない!」と褒めていたので、余計心配になった。
2
そんな感じで1日は過ぎていった。
2時間目からは隣の男子が教科書を見せてくれた。
しかしその教科書は案の定、落書きや意味の分からないペンキがついていたりして、当の本人はほとんど居眠りをしていたので、こっちは緊張するにできなかった。
彼は「一月」と呼ばれていた。おそらく苗字だ。
朝はあんなに緊張と不安でいっぱいだったのに、隣の席の一月さんのおかげである意味気分は楽になった。
放課後、クラスの人達が帰ったり部活へ向かう中、私は先生にある紙をもらった。
「部活説明」と「入部届」のプリント。
私の目はすぐに止まった。
部活一覧の中にあったひとつの行に。
「美術部」
頭を振った。癖で無意識のうちに探してしまったのだ。
どうせならどこにも入らないという選択肢もあったはずなのに。
私の足は、また無意識のうちに美術室を探しにいっていた。
この学校の美術部のレベルはどれくらいかとか、どんな作品があるか、気になっただけだ。
心の中で口実を作って。
「美術室」と書かれたドアを見つけた。
大きくて静かに佇むドアを前に動けないでいると、足音が背後で止まった。
「美術部入部希望?」
突然かけられた声に心臓が口から出そうになった。
「あ、ごめん。驚かせちゃった?」
「あ、いえ……」
正直かなり驚いたが、目の前にいる女子はずいっと私に近づいてきた。
そしてメガネを光らせながら、
「入部届を手にしてここに佇んでいるってことは、入部希望なのよね?」
と迫ってきた。
「大丈夫、緊張しなくて。あなた転校生でしょう。朝廊下で見かけたわ。それでその紙を持っているのだから、つまり入部希望なのよね?」
「……あっ、違います。失礼しました」
「お待ち」
きびすを返そうとしたが、がっと肩を掴まれる。
そして、ものすごい勢いで、私に頭を下げた。
「お願い、ぜひとも入部してほしいの。今部員が3人しかいなくて……! このままだと来年廃部なの!」
「さ、3人!?」
やけに強引に入部を迫ってくるのは、そのためか。
女子は頭をあげて、私に視線を合わせた。
「それにあなた、東高校の美術部にいた子でしょ? 一目見たときにわかったわ。あの、去年の全国大会で最優秀賞を取った、来須さんでしょう?」
次の瞬間、全てが走馬灯のように思い出された。
ぐわっと何かに殴られたような気がした。
遠くから聞こえていた部活動の掛け声がぐにゃりと歪んだ。
「……すみません。この話は、なかったことにしてください」
「……え? あっ、来須さんっ」
今度こそ強くきびすを返し、私はその場から走った。
3
頭がぐしゃぐしゃでどうにかなりそうだった。
どうして走っているのか、どこへ走っているのか分からないけれど。走らずにはいられなかった。
誰かにぶつかりそうになっても、足を止めることはできなかった。
あの日、あの時の出来事は、全てあの学校においてきたはずなのに。
いまだに私の中で渦巻いている。
そう、まるで、こうして走っているのは、逃げているようだ。
気がつくと、そこは校舎裏だった。
放課後のチャイムがなって、我に返る。
どうやってここまで走ってきたのだろう。
さっきの人に悪いことをしてしまった。
息がつらい。足が痛い。
手が震えて、持っていた通学鞄を地面に落としてしまう。
鞄の中のものがそこらじゅうに散らばった。
どうしてここまで来て思い出さなくちゃいけないの?
私は忘れるためにここまで来たのに。
散らばった筆箱やノートの中にまじった、スケッチブックに目がついた。
・・・どうしてここまで来て、こんなもの持ち歩いているんだろう。
落ちたものを一通り拾っても、スケッチブックだけは拾えなかった。
それを睨みつける。
「こんなもの……いらないっ!」
次の瞬間、私はスケッチブックを掴み上げて、地面にたたき付けていた。
しばらく呆然として、すぐにぼろぼろと涙が溢れてくる。
あんなに大切にしていたスケッチブックが、曲がって土で汚れていた。
「……う、うぅ……」
腰が抜けたようにその場に座り込み、声にならない声がでる、その時だった。
「どうした」
聞き覚えのあるような声がして、思わず涙が止まった。
声のした方を振り向くと、そこには、私の隣の席にいたあの一月さんがこっちに走ってくるところだった。
「あ……あ、一月……さん」
私の異変がすぐにわかったのか、一月さんはすぐにあたりを見渡した。
どうしてここに一月さんが? もしかして、見られた?
「お前確か、今日転校してきた……」
そういいながら、地面に落ちたスケッチブックを見つける。
それをそっと拾い上げた。
私はまた泣きそうになる。
「あ……!?」
泣きそうになって、思わず彼を凝視した。
一月さんはそのスケッチブックを開いて、ページをめくりはじめたのだ。
かっと顔が熱くなる。
「ちょっ……勝手に見ないでよ、返してください!」
一月さんは私を見た。
「何で捨てた」
「……え?」
動けなくなった。
よく見ると、一月さんはペンキだらけのエプロンを着ていた。
もしかしてこの人、美術部……?
「わ、私にはもう描けないんです。だから返してくだ……」
次の瞬間、スケッチブックはパタンと閉じられた。
そして一月さんはそれを見せびらかすように私にひらひらと見せて、
「返してほしければ、追いかけてこい」
と、ものすごい勢いで走りはじめたのだ。
「……え? ……え、ちょっと」
物凄い全力疾走をしながら遠ざかっていく一月さんとスケッチブックを唖然と見た私は、はっとなった。
スケッチブックがとられた。
私のスケッチブックが一月さんの手に渡ってしまった。
「ちょ、ちょっと……、まってよ!!」
私は急いで追いかけるが、一月さんの足が止まる気配はない。
なにがどうしてこうなった?
一月は陸上部顔負けの速さで余裕の表情で来須から逃げていく。
長い渡り廊下を走りながら、スケッチブックをぱらりとめくった。
そこに描かれた絵を見て、一月は思わず笑みを浮かべた。
4
美術室では、部長と副部長が二人、もう一人の部員を待っていた。
「一月くん、遅いね~。これじゃ部活がはじめられないなぁ」
と、作りかけの石の彫刻をこんこんと削りながら、部長がぼやく。
「あんた、すでにはじめてるじゃないの」
副部長は、それを横目で見ながら浮かない顔をしていた。
この副部長が、先ほど来須に美術部の入部を勧誘した女子である。
「悪いことしちゃったなぁ~……」
そういいつつクッキーの袋を開ける。
「さっき話してくれた女の子のことかい?」
「そうよ」
副部長はお菓子をつまみながら考えた。
なぜ、彼女があんなに取り乱して、走り去ってしまったのか。
物凄い速さで走っていってしまったので、追いかけることも止めることもできなかった。
「その子は本当に去年の全国大会で一番を取った子だったの?」
「そうよ。名前も一緒だったもの。あの時はテレビでもちょっと映ってたし。……そう、テレビにも、映ってた」
映ってた、けど。
全然印象が違ったような。
ガララ、とドアが開き、一月が部室に入ってきた。
「すみません。遅れました」
「あ~一月くん、遅いよ。何やってたの?」
「一月くん、こんにちは」
部長と副部長が一月の方へ振り向く。
「……おや、一月くん、そのスケッチブックは……?」
「……あぁ、これですか。これは……」
一月はにやりと笑って、スケッチブックを少し広げてみせた。
副部長の表情が変わる。
「その絵は……!」
「そういうことです」
一月はすぐにそれを閉じた。
と、すぐに、物凄い足音が廊下から聞こえた。
そして間一髪入れずに美術室のドアが乱暴に開かれた。
そこにいたのは、長い髪を乱し息を切らした来須だった。
「……一月さん、私のスケブ……、返してください……!!」
ぜえぜえと肩で息をしながら、来須はすっと手を差し出した。
「ここまで追いついたか」
一月は感心したように頷くと、隣の部屋につながる美術準備室のドアを開けた。
「……だが、まだ返さんぞ!」
そう叫び、一月はまたすごい勢いで美術準備室を抜け、廊下を走り去っていく。
限界の限界まで走った来須はぽかんと口を開ける。
悔しそうに唇を噛んだ。
「ちょっと、いい加減に……まちなさい!!」
と、一月を追いかけていく。
嵐のように過ぎ去っていったと二人を、部長と副部長は唖然と見送った。
そしてそのまま顔を見合わせた。
5
一月さん、速い。全然追いつけないし、距離は遠くなっていく。
私も私で、絶対もう走れないのに。
どうしてこんなに走っているんだろう、脚と肺は悲鳴をあげているのに……、
「はぁっ、はぁっ……」
どうして、一月さんはこんなことをするの……?
いや、理由はどうであれ、……あのスケブの絵を、絶対に彼には見せたくない!
毎晩、毎晩思い出すのは、あの日、あの時の出来事。
去年の冬、放課後の寒くて暗い部屋で一人で泣く私。
私が中学3年生の時志望した学校は、東高校という、美術部のレベルがかなり高いと少し有名だった、普通科の高校。
勉強もそれなりに頑張っていたし、何より昔から絵が得意だったので、この高校に入るのはそう難しいことではなかった。
「来須絵里と言います……将来は美大に入りたいと思っています!」
新しく始まるあこがれの高校生活にドキドキしながら、夢を膨らませながら、私は元気いっぱいに振る舞った。
緊張もしたし不安も少しあったけれど、友達はすぐにたくさんできて、みんなで一緒に遊んだり勉強をしたりしていくうちにそれは消えていった。
美術部に入ると、共通の友達がもっと増えて、携帯のアドレス欄も友達の名前でいっぱいになって、うれしくて、中学の時より絵をがんばった。
絵は目に見えて上達していった。
最初は同じくらいの画力だった友達の絵も、あっさり抜いてしまうほどだった。
「来須はすごいなぁ。君みたいな生徒が美術部に入ってくれて、本当によかった」
顧問の先生からも褒められて、人生ってこんな簡単に切り開いていけるんだ、と実感した。
これが自分の実力だと、当然のように思えるようになった。
画力に差が出た友達を慰めることもあった。
本当は優越感に浸りたかったけど、落ち込んでいる友達を元気づけることで周りも感心してくれた。
「絵里はいいよね……絵が上手くて。私、絵やめようかな」
「そんなことないよ。一緒にがんばろうよ! 応援するから!」
今思えば、そのころからだったろうか。
私が私を見失いはじめてきたのは。
全てがうまくいって自信のついていた私。
勉強も趣味も楽しくて、友達もいっぱいいて、絵のうまい私。
どれも完璧で順調なのに、何かおかしいところなんてあるだろうか?
あの頃の私にはわからなかった。
「みんなお待たせ! 今日も部活がんばろ!」
放課後、いつも通りみんなの元へ行った。
「……うん」
みんなの表情がどこかいつもと違うことが増えた。
でも得に気にすることはなくて、もしも私の絵に嫉妬しているのなら、それは悩むことじゃなかった。
ある、寒い冬の日。
3年生の先輩たちが引退し、1年生の私たちと、2年生の先輩たちで引き継ぎを頑張っていた頃。
その頃は私の絵は2年生の人たちよりも上達していた。
顧問の先生の進めで出した高校生を対象とした全国の絵のコンテストに、私は最優秀賞をとったのだ。
それは瞬く間に学校で噂になり、全校集会で先生達に褒められ、新聞社から取材も来て、テレビ出演の取材まで来たのだ。
新聞はそれほど大きくない記事だったし、テレビ出演だってほんの数分しか流れなかったけど。
でも、私にとって、これほど大きな喜びはなかった。
絵を描くってこんなに素晴らしいことだったんだ。
私はこんなにできる人だったんだって分かって、もう怖いものなんて何一つなくなった。
あの日までは。
「ねぇみんな、どうしたの? 部活は?」
その日の放課後、いつも通りみんなのところへ行くと、みんなは帰るところだった。
友達は誰一人振り返らず言った。
「みんなやめたよ」
「……え?」
「うちら絵なんてもう飽きたし、全国優勝の人が一人いれば美術部はやっていけるでしょ?」
笑顔のまま固まった。
「まだ一年なのに、よく全国大会に応募なんてしたよね?」
「……みんな? まって、ねえ」
何事もなかったかのように笑いながら帰っていく友人達に取り残されて、私は呆然と立ち尽くした。
どうして? どうしてこんなことに?
だって、私は。
私はただ、絵が描きたかっただけなのに。
廊下を走って、私は部室へ向かった。
せめて誰かいるはず、と。
だけど、ドアを開けた先にあったのは……真っ暗な部屋に散らかった、私の描いてきた絵。
恐怖と涙で頭が真っ白になった。
私は大好きな絵を描きたかっただけなのに。
その絵が、私を壊した。
それからのことはよく覚えていない。
なんとなく思い出せるのは次の日からは美術部の友達をはじめ、だんだんとクラス全員が私に距離を置くようになったこと。
1年生も2年生もやめてしまった美術部はなくなってしまったこと。
あれから私は絵をやめた。
描いたとしても、死んだような絵が出来上がっていくだけで、何も楽しくなかった。
それがあのスケブだ。
あのスケブだけは、一月さんには見られたくない。
走馬灯のように駆け抜けていく昔のこと。
走っていくうちに涙がこぼれていく。だけどこれは悔し涙だった。
今になって、なんとなくわかる。
上手な絵がなんだっていうの。
何が全国優勝なの。
あんな人たちが、なんだっていうの。
一人ぼっちがなんだっていうの。
いつのまにか手を伸ばす距離に、一月さんの背中があった。
その時、私の目に確かにうつった。
わずかに後ろを振り向いた、一月さんの表情。
「……なに、笑ってるのよ、一月!!」
6
バッタァン、と大きな音が響き渡る。
私は一月さんを見事に押し倒していた。
完全に廊下の床に倒れ込んだ一月さんが、小さな声で「やるな……」とつぶやく。
そしてスケブをそっとみせた。
「お前の絵……走っている間に見させてもらった」
一月さんの声はかすれていて、苦しそうに息継ぎをしながら喋っている。
「とても繊細な絵……風景画だが、独創的な構図。 いい絵だった」
その率直な言葉に、目の前が涙で見えなくなった。
その絵は、私が孤独になって死んだように描いた絵だったからだ。
「どうして、こんなことしてまで」
涙がとまらず、顔を手で覆いながら問う。
「お前はどうしてここまで追いかけてきたんだ?」
「……え?」
「それが、お前が絵に対する答えじゃないか?」
「……」
「俺達、校舎3周分は走ったぞ?」
「……私、……すごく怖くて……私の絵のせいで、大切なものなくしてしまったとか、思って……。
だけど、本当は……」
滲んでいく視界の中で一月さんが優しく笑って、
「ああ」
と頷いた。
「あ~、いたいた!」
「やっと見つけたよ」
廊下の向こうから、部長と副部長が追いついてくる。
そして一月たちに声をかけようとしたが、二人は立ち止まった。
「……あの二人、いい感じじゃない」
一月と来須は向かい合って笑いあっていた。
7
一月さんと追いかけっこをしたり、話をしたりしているうちに、私の中の考えが変わって来ていた。
もう二度と描かないと決めていた絵。
それを、もう一度描いてみたいと思いはじめてきていた。
みんなで部室の美術室へ戻っていくなか、その思いが固まる前に、私は無意識に部長さんに話しかけていた。
「……あの、部長さん。私、美術部に入ってみたいです」
「……えっ!」
みんなが私を振り返る。
得に、副部長さんは驚いた様子で、
「来須ちゃん、いいの?」
と聞いてくる。
部長さんは嬉しそうにうなずく。}
「僕は入ってきてくれると嬉しいな、って思っていたよ。……一月くんも、そうだよね?」
「はい。嬉しいです」
一月さんもうんうん頷き、私は嬉しくなった。
転校前にいた時の美術部と、この美術部は全く雰囲気が違う。
みんな優しくて、安心できる雰囲気。
「ありがとうございます。……さっきは騒がしくしてすみませんでした」
「全然! 気にしないで。やっと我が部に女の子が入ってくるのね……!」
「歓迎会しないとですね」
話しているうちに、部活の終わるチャイムが響く。
さっきはじまったばかりだったのに、あっという間だった。
「入部の手続きとかは、明日にしようか」
「わかりました。お疲れ様でした」
窓から見下ろすと、部活動の生徒たちが帰っていく。
少しずつ校舎が静かになっていった。
部室へ鞄を取りにいく部長さんと副部長さんの背中を見届けていると、隣から「来須」と、一月さんの声がした。
「一つ気になっていたんだが……」
「どうしたんですか? 一月さん」
「どうして絵が描けなくなったんだ?」
一月さんの素朴な疑問に、なんと答えたらいいか動きがとまる。
「あ、言いたくないなら……」
「……いえ。……絵が原因で、いじめられていたんです」
私の声は思ってたより普通の声だった。
一月さんの表情が強張ったが、私は努めて明るく続けた。
「それから絵の事が少し分からなくなって、絵が好きなのか、嫌いなのかとかも……
自分が描きつづけていた、芸術って何なんだろう……とか思っちゃって」
「来須」
私の声をさえぎるように、一月さんは私を呼んだ。
「来い」
そう言って、私の横を通りすぎると、スタスタと歩いていく。
得に感情のない声色だったので、びっくりした。
「……え?」
一月さんは振り返りもせず早足でいってしまう。
「ま、まって一月さん!」
一月さんが向かって行った先は、視聴覚室だった。
「この部屋が俺のアトリエだ。……部活の時だけ自由に使っていいと言われている」
「そうなんだ……」
部活はもう終わったのに、どうしてこんなところに連れてきたの?
と聞こうと思ったが、聞くに聞けなかった。
私はただ、一月さんを目で追う。
「いいか、見てろ」
一月さんは大きなペンキ缶を持ってきた。
(ペンキで……何をするの?)
次の瞬間。
ペンキ缶を大きく持ち上げた、と思ったら、一月さんはそれを頭からかぶった。
バシャァと真っ赤なペンキが頭から全身に降りかかり、その姿は真っ赤に染まる。
一月さんの服も、顔も、上履きもすべてが真っ赤になった。
ボタボタとペンキを床に垂らしながら、一月さんは私をまっすぐ見て言った。
「来須、これが芸術だ」
8
なに? 何なの? 一月さんは何が言いたいの?
学校から出てくると空は夕暮れ色だった。
「来須ちゃん!」
「……あ、副部長さん
」
「一緒に帰ろうよ」
校門の前で、副部長さんが手を降っていた。
待っていてくれたんだろうか。
「何かあった?」
さっきの出来事で呆然としていた私に気づいたのか、副部長さんは明るく聞いてきた。
「あっ、いえ……。いえ、実は……」
私は一月さんのことを副部長さんに話した。
追いかけっこのことと、ペンキのこと。
副部長さんは困ったように笑う。
「へぇ、頭からペンキを……一月くんは本当に変わり者だなぁ」
「それって、芸術って言うんでしょうか……?」
「言うんじゃない?」
「言うんですか!?」
「一月くんは不器用だからね。来須ちゃんのために、体張って教えてくれたんじゃないかな」
私の……ため?
……一月さん。
*
「……ただいま」
家に帰っても私の心は放心状態だった。
はじめての転校先の学校。部活。一月さんとのこと。
今日一日、色んなことがありすぎて、思考がうまく働かない。
ひと言でいえば、疲れたのだろう。
ふと勉強机の引き出しから、1枚の古い厚紙を取り出す。
7歳の時に友達からもらったバースデーカード。
あの頃は絵が大好きで、友達とも楽しく絵を描いていて、このカードもその友達がくれたもの。
……もういないけど。
なにかあればこのカードを無意識に取り出して、こうして眺めていた。
そういえば、転校前の辛かった時期も、こうして。
知らないうちにカードをぎゅっと握りしめ、少し厚紙が折れる。
「絵里、そろそろごはんよ」
ドアの前にお母さんがいた。
少し心配そうな、控えめな声色。
そういえば私、今日のことお母さんに話してなかった。
転校初日でずっと心配してくれていたんだろう。
「……お母さん、芸術って、何だと思う?」
背を向けたまま聞いた。
お母さんを困らせたいわけじゃなかったけど、口についてでたのだ。
「絵里……」
ドアの前で、すごく動揺しているのがわかった。
「あのね。今日、学校でね……。私に本気でぶつかってきた人がいたの……。
私ねもう、絵なんて絶対描きたくないって思っていたのに」
折れたバースデーカードに涙が落ちる。
「今、描きたくてたまらないの」
「……絵里」
「絵を描くって、独りで泣きながら金賞の絵を描くこと? ちがうよね。
私は、下手でも汚くても、一生懸命描いて、かいてよかったって思える絵を描きたい」
瞼の裏には、一月さんの後ろ姿が想像できた。
今日私を目覚めさせてくれた人。
「それで……、どんな時も堂々としていられる、あの人みたいになりたい……!」
「そうね」
応えてくれたお母さんの声は、もう心配そうな声ではなかった。
優しい声。
「絵里は大切な人に会えたのね」
9
次の日の朝。
週に3日の部活が始まる5分前。
眠い目をこすりながら、一月は来須の姿を探す。
部室に入っても彼女の姿は見当たらなかった。
「……おはようございます。来須は?」
既にいつもの椅子に座っていた部長と副部長に声をかける。
「一月くん、おはよう。まだ来てないよ」
「じき来るさ」
もうすぐ部活の始まるチャイムが鳴る。
その時、ドアが開いた。
「あ、きたきた。……って、来須ちゃん!?」
副部長の素っ頓狂な声が響く。
驚いて振り返ると、一月も目を見開いた。
「おはようございます」
そこにいたのは、少年のように、短い髪になった来須だった。
昨日まで確かに腰まで伸びていた長髪は、肩の上までカットされていた。
「えっ、来須ちゃん、髪の毛切っちゃったの!?」
まるで別人。呆然としている一月に、来須はずんずんと近寄ってきた。
「これが芸術、ですよね? 一月さん」
「……そうきたか!」
一月は思わず笑った。
昨日までの自信のなさげな少女の面影は、どこにもなかったからだ。
「一月さん。……これから、私と一緒に絵を描いていってくれますか?」
「……あぁ、もちろんだ。……といいたいが、無理だ」
「え。……どうしてですか!?」
「俺は今日からテストの補習を受けなければならない」
それを聞いて、来須は昨日見た7点のテストを思い出す。
来須も笑ってしまった。
「……もうっ、そんなの私がみてあげますよ!」
「おお、それは頼もしいな。よろしく頼む」
おわり
2021年12月19日